信長誕生から京都・建勲神社まで(その1)

和暦西暦早見表


名鉄津島線勝幡駅前銅像。関連:土田御前 織田信長 勝幡駅/勝幡城跡

Oda-Nobunaga
ウィキメディア・コモンズ経由で・織田信長像 賛・跋。原本は愛知県西加茂郡挙母町長興寺所蔵。


信長死後に宣教師によって描かれたとされる肖像画を写真撮影したもの。三宝寺所蔵。
フリー百科事典より出稿。


長興寺 長興寺 (豊田市)


2018年6月訪問時には下記の案内板がこれに変わっていました。


名古屋城二の丸庭園内(中区)にあります。織田信長はここで誕生
しました。海部郡勝幡城の説もある。


名鉄津島線勝幡駅(左、愛西市)前の銅像(中)と説明板。


織田信長の誕生地とされる勝幡城跡(稲沢市)。近年になり名古屋城内の説より勝幡城説が 有力と
なっているようです。関連:尾張国府・稲沢市 勝幡城跡 勝幡駅/勝幡城跡


織田弾正古城碑。嫁振橋と小津橋のほぼ中間、日光川堤防下にあり、愛西市となっています
織田弾正古城碑 勝幡城跡


桃巌寺、
恵心僧都作の木彫聖観世音菩薩を安置,境内は5千余坪を有し
楓桜樹など名木数多く美しい竹林などと共に庭園美を競っています。又
露座の名古屋大仏も有名で、別名名古屋弁天といわれる。 桃巌寺


織田信秀の菩提寺として三男信行(下段の末盛城参照)が建立した。織田信秀五輪の塔(左)と
桃巌寺山門。


境内の竹林と五葉松。


末盛城跡。稲生が原の戦 信長関連、古渡城跡信長関連、岩倉城跡 末盛城跡

末盛城跡の土塁。室町時代末期平山城として原型に近い形で残されています。
県内の貴重な史跡です。


池田恒利の屋敷跡。
妻の養徳院は織田信長の乳母でした。信長は当時3歳でしたが
乳母の乳房を噛み切る癖があって困らせていたが養徳院になってから直ったといわれる。
関連:大垣城主・池田恒興 養徳院 リンク: 岡山市・池田恒興家代々
池田恒利の屋敷跡


凌雲寺。駅から西1.6キロ新大正橋すぐ東にあります。本堂の前に織田信長が子どもの頃、
手習いで真っ黒になった草紙を枝に掛けて附近の子どもたちと遊んだという、信長草紙掛の松
があり、石碑が建っています。中村区役所説明文引用。


稲葉地城跡(津田豊後守居城)。凌雲寺から東北約100m、神明社鳥居横に建っています。


右:滝之寺:天台宗、山号は圓融山(えんゆうざん)。大永から永禄年間(1521から1570)頃、
連歌師による「滝之坊興行」で知られる。織田信長が幼時、この寺で手習いをしたといわれる。
左:青衾神社(あおぶすま)、祭神:天道日女命 、仲秋の名月には青衾社祭 が行われます。
滝之寺/青衾神社


含笑寺。 曹洞宗。大永8年(1528)織田信秀が生母含笑院の菩提を弔うために創建しました。
山門は清洲城にあったものを移築したものです。 含笑寺


法華寺。信長を言葉で納得させた傑僧日陽がいたというすごい寺です。 法華寺

徳源寺
徳源寺。織田信雄公(織田信長公次男として生駒屋敷で生まれる。)創建。この付近には建中寺
徳川園の名勝地が多く町名にも代官町、徳川町、白壁町、黒門町など武家屋敷が在ったところで
城下町の面影が残る町であります。情妙寺、永平寺別院なども駅から近い。
リンク:徳源寺 徳源寺


写真右は万松寺の本堂(地下1階、地上5階)、左は本堂横にある廟所
詳しくは下段のリンクをご覧下さい。 万松寺


織田信秀公廟所。


史跡コース駅から南へ約1.3キロ行ったところにある
(鳴海町三王山交差点のすぐ上の山)千句塚公園内にある
名古屋市緑区鳴海町赤塚付近 赤塚の戦い(信長最初の戦い)
以下ウイキペデイアより抜粋
尾張国内で勢力を拡大していた織田信秀が死去(時期については諸説あり)し、
子の信長が跡を継ぐと、信秀に重用されていた鳴海城主の山口教継は駿河の今川
義元に寝返った。教継は子の教吉を鳴海城に置き、笠寺城を修築して今川方の葛
山長嘉・岡部元信・三浦義就・飯尾乗連・浅井政敏を引き入れると、自らは桜中
村城に立て籠もった。 天文21年4月17日(1552年5月10日)、信長は兵800で那古
野城を出陣し、中根村[2]を駆け抜け小鳴海[3]に移動すると、三の山[4]へ登った
すると、山口教吉が三の山の東、鳴海からは北にある赤塚に1,500の兵で出陣して
来た。これを見て信長も赤塚に進軍し、両者は先陣を繰り出して戦闘に突入した。
このときの信長の先陣には、父信秀より付けられたいわゆる四家老の一人内藤勝介や
蜂屋頼隆の可能性がある蜂屋般若介の名も含まれている。
矢戦の後、槍戦となり、巳の刻より午の刻(おおよそ午前10時から正午ごろ)まで乱戦
が続けられた。あまりの接近戦のため、首を取り合うこともなかったという。信長側は
30騎が討ち死にした。しかし勝敗は付かず、元々は味方同士で顔見知りの間柄だったため
敵陣に逃げ込んだ馬はお互いに返し合い、生け捕りになった者も交換して帰陣した。


大須を歩けば観音様と万松寺(ばんしょうじ,写真上)を抜きでは語れない。尾張一円を領していた
古渡城主織田信秀(信長の父)が織田家の菩提寺として開基した。ご本尊は十一面観世音菩薩、曹洞
宗本山総持寺の末寺,当時は今の中区錦と丸の内2,3丁にまたがる大殿で中心に七堂伽藍が備わっ
た一大寺院であった。慶長15年名古屋城築城にあたってここに移転した。当時は寺域は2万2千三
百九坪あったが大正元年、時の三十七世和尚がその大部分を開放し大須を名古屋の大繁華街とした。
天文21年3月3日父信秀公の葬儀がここ万松寺で営まれたさい荒馬の袴姿の信長が焼香の時、 鉢香を
位牌に投げつけた逸話は
有名です。また天文16年(1547年)三河の松平竹千代(のちの徳川 家康
公)が6歳から2年間万松寺で暮らしたことがある。 (万松寺の歴史より抜粋)平成12年5月11日写す。


熱田神宮の参道に掲示された織田信長公。

蛇池と織田信長
蛇池。
信長青年時代の面目躍如。駅から東北へ約1.5キロ、西区比良2丁目の蛇池公園にある
清洲から早馬で15分もあれば着く。70年前(小学校時代)には全く人家は無かったが現在は家
がびっしり建っている。 蛇池


稲生が原古戦場跡。
織田信長と信行が戦った稲生が原の古戦場跡(庚申塚)である。
この戦の霊を祭ったと言われる。信長がこの合戦に勝利し、(前田利家19歳は、この
合戦で手柄をたて槍の又左の異名を取る)尾張統一に向け大きく踏み出した。又この戦
柴田勝家は信長に負け以後信長に心酔する。末盛城桶狭間の合戦の4年前の ことで
ある。 稲生が原古戦場跡


成願寺。
本堂ガラス張り、丸い屋根に大改装されています。駅から北へ約2キロ庄内川左岸堤防近くです。
大田牛一 信長の家臣・柴田勝家に仕え、成願寺元僧侶で「信長公記」作者のゆかりのお寺です。
  関連:山田重忠の碑   成願寺


平手政秀邸址。
人間、人生の最高の「死」をもって諌言するという・・・・、信長自身(19才)も
「じいつ・・・・」と言ったまま政秀の遺体にすがり長く長く号泣したものと思われますその3年半後
稲生の合戦で、危うく平手政秀が心痛した不穏な謀反にあい、難を逃れ以後天下取りに突き進んだスタ