明治の東海道(その1)

明治の東海道(その1)


明治の東海道をご訪問下さいまして有難うございます。

「明治の東海道」の熱田起点(左)と「ふたつやの渡し」弥富市終点(右)。

佐屋路と周辺の主要街道
上記道路地図
地図中ほどの「江戸初期の海岸線」が明治の東海道と思います。

旧佐屋路は明冶5年に宮(熱田)から弥富市の前ヶ須まで新しく東海道が開通し、
「佐屋三里渡し場」は明冶中頃廃止され約5キロ下流の「ふたつやの渡し跡」が
使われるようになりました。右は石碑前の川にコンクリート階段がありこれが
船の乗り場と思われます。


古く江戸時代の宮宿(熱田)〜桑名宿間は海路七里の渡しと、陸路神守〜津島経由の佐屋街道(佐屋〜
桑名間・三里の渡し)でしたが佐屋三里の渡しが河川の堆積物により船が使え無くなり、明治5年下
流の「ふたつや」の渡し場、前ヶ須(弥富市)〜熱田が開設されたのが明治の東海道でした。その
後北に国道1号線(昭和9年完成)、戦後南に国道23号線(名四国道)が開通し、この「明治の東海
道」は役目を終え、町の生活道路として今も中心的存在となっています。


佐屋街道:中川区福祉会館前の説明板


「明治天皇焼田港御着船所跡」記念碑。
元海西郡焼田港。由緒記に書かれていますように
明治天皇が明治元年遷都で京都・御所から江戸へ赴かれた際大津、石部、土山、関、四日市と
順調な旅を続けられたが桑名から佐屋宿へ渡るとき支障を来たし「明治の東海道」が新田の開
発が進んだ熱田新田、当知町、南陽町、十四山村を経て弥富町・前ケ須「ふたつやの渡し」へ
と移行して行きました。 記念碑台座の由緒記。


国道1号線熱田南交差点(戦前は熱田神宮南門前)。さしずめ日本橋起点(東京) に当たる中部の道は
すべて熱田から始まる・・・そんな道路起点でしょうか。更に国道247号線(東海市〜西尾市〜豊橋市)
の起点。江戸時代からの東海道陸路のターミナル宿場。佐屋街道、美濃街道の起点。今回旅する「明治の
東海道」もここを起点としていました。ここに世界一のエコ車専用のターミナル宿駅を提案。


藤江寺(左)の門前に下記の道標が建っています。右は熱田南交差点北西角の西福寺。ここから
旧東海道西の端、追分前の「ほうろく地蔵」まで直線距離約150mくらいです。


左写真は寺前の国道1号線。右は藤江寺山門両側のの仁王像。浄土宗西山禅林寺派 木像薬師如来坐像
薬師如来坐像/藤薬師/とうやくし。中央は寺前の道標。相当古い物で文字が欠けて判読しがたい。
道標文字拡大左列田中村(当時の地名) と記されている。


「明治の東海道」は起点から南へ、渡し場のすぐ上流大瀬子橋(左写真)を渡り千年の街に入ります。
右は対岸から見る渡し場風景。 大瀬子橋


大瀬子橋から南下した街道はここ八幡神社先で右折し、東海通りに出、千年交差点から西へ直進します。
もとは尾張藩徳川家の下屋敷南庭に鎮座されていましたが、天保8年(1837)に現在地付近に遷座された
ものです。八幡神社由緒拡大 八幡神社

この区切り線から下方の区切り線まで地元古老の話をまとめて
ほぼ「明治の東海道」と修正させていただきます。


慶長15年(1610)名古屋城築城の際、加藤清正公が堀川で巨石を運搬したが、
運搬船が度々遭難したため清正が宮崎の鵜戸神宮の札を受け、現在の白鳥橋下流200mの
西側に創建した。以来、海上、交通安全の守り神として深い信仰を集めている。
昭和14年、愛知時計電機の業容拡大により現在地に遷座。戦災で焼失の後、50年に立派に再建。
正面左側にまむし神社と書かれた立派な石碑があるが、まむしが多くいたことに由来している。
波限(なぎさ)神社


明治中頃、村の子どもたちが疫病で次々に息を引きとった。祈祷によるお告げで、
村人が総出で近くの池をさらえ、沈んでいた地蔵を引き上げたところ、疫病はおさまった。
村人は感謝して地蔵堂を建て、地蔵尊を祀った。その後地蔵尊は厚い信仰を受けたという。
熱田区役所説明文引用。 池中地蔵堂


1番割観音札所・身代わり地蔵尊。今でも国道1号線の無事故を見守り続けています。
胎内に般若心経1千巻が納めらています。


2番、3番割観音札所、熱田社東隣慈教寺境内にあります。慶安2年(1649)、
堀川筋から庄内川に至る地帯が新田開発され、御新田、熱田新田といわれた。
新田開発の守護として西国三十三か所の観音が安置された。熱田区には一番から
九番まである。熱田区役所説明文引用。


白鳥西公園内にあります。


4番、5番割観音札所。


八剣社。


8番、9番割観音札所。 8番、9番割観音札所
右写真は熱田新田の開発が進むにつれ、新田の北側に自然にできた道である。
くねくねと曲がっており、「百曲街道」といわれた。これは名古屋、下之一色、
熱田の分岐点を示す道標。熱田区役所説明文引用。


左は10〜11番割観音堂 10〜11番割観音堂。 右は6番、7番割観音札所。
6番、7番割観音札所


春日神社と境内の中島稲荷大神。国道1号線沿い北側にあります。


右:20番割観音堂。左:正徳神明社。並んで建っています。

「百曲街道と観音堂めぐり」のルートが「明治の東海道」と地元の古老が教えて下さいました。


21番割から23番割観音堂。 21番〜23番割観音堂


24番割観音堂。


左:25番割観音堂(地蔵院)本尊は、十一面千手観世音菩薩。右:荒子川小確中橋から北方面を撮る。
荒子川小確中橋


26番〜28番割観音堂。


小確(おうす)神明社。


あおなみ線名古屋競馬場前駅から西へ約2.5キロ、明治5年に新しく東海道が宮(熱田)から
前ケ須(弥富市)まで設置された当時の街道。昔はこの道が海辺を通っていたという。
この橋から西へ約1.3キロの間が百曲街道といわれる。 西夷橋


29番から32番観音堂。


左:観音堂横の百曲街道。右:妙光寺。日蓮宗。嘉永2年(1849)10月、現在の中川区東起町の
「宝塔様」と呼ぶところに東起庵を創建したのが当寺の始まりで、現在地に移し妙見堂と改め
た。さらに、昭和16年3月現寺号に改めた。港区役所説明引用。


上記観音堂のすぐ東にあります。百曲街道を西方面へ抜けて庄内川を渡り下之一色町へ入ります。
記念碑文拡大 神明社


大音寺。この先「明治の東海道」は明徳橋、日の出橋を渡り南陽町から弥富市へ入ります。
大音寺


日の出橋を渡り新川右岸堤防を南へ行き祠(右端、天照皇大神宮を祀る)の先を右折する。
左端の道(左)をまっすぐ西へ行く。途中の地蔵堂(中)。 新川右岸堤防右折場所


重正寺。 重正寺


正福寺と郵便局前の大きな石碑(不明)。


妙光堂と堂前の明治の東海道の街並み(左)。


七反野地蔵堂。庄内川と戸田川の中間にあたり、新田工事犠牲者の霊を弔い、堤防が切れないように
との願いをこめて、地蔵堂を建立したと記されています。


七反野神明社。


山神社。 山神社


「明治東海道」沿いの超願寺と徳照寺。 徳照寺


未開の港区南陽町一帯の開拓に貢献した鬼頭家宅跡の面影です。「明治東海道」
関連:旧兼松家武家屋敷門 主税町長屋門 鬼頭景義宅址長屋門 鬼頭景義宅址長屋門


南陽神社。


南陽神社と役場跡の記念碑。


左:東福橋から南を撮る。右は北方面戸田川緑地を望む。、 東福橋


熱田社。 熱田社由緒 熱田社

とだがわこどもランド







とだがわこどもランド 第1部 とだがわこどもランド 第2部
農業文化園・戸田川緑地・第1部 第2部

戸田川緑地・港区で河津桜を楽しむ


2020年3月3日撮影



戸田川緑地・港区で河津桜を楽しむ

上写真はペダルを親子で踏んで楽しい空中散歩、
下はゴム毬をいっぱい詰め、ネット昇りもできる
安全第一の遊具。
戸田川こどもランド

駅から西へ約4.7キロ戸田川緑地公園です。
「とだがわこどもランド」があり子供が楽しめる
珍しい施設がいっぱいあります。市バスが便利です


茶屋後神明社。


茶屋後神明社境内の秋葉神社と関戸家顕彰碑。 茶屋後神明社由緒


茶屋後神明社西の福田川。左は北上流方面、右は南下流方面を撮る。

佐屋宿から伊勢長島。 熱田から弥富市前ケ須まで明治・東海道


江戸時代、佐屋街道「三里の渡し」の航路図(愛知県図書館出稿)。明治天皇ご一行は
桑名宿から佐屋宿へ「三里の渡し」を航海中、焼田港付近で川の堆積物などで進めなく
なり焼田港でご着船になりました。是が契機となり「明治の東海道」が開発されました。

明治・東海道(その1) 明治・東海道(その2) 明治・東海道(その3) 伊勢・長島

次は福田宿 明治・東海道(その1熱田へ行く

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