中山道(伏見宿・明智光秀その2)

織田信長重臣・明智光秀の誕生地を訪ねる小さな旅


明智光秀画像 [説明] 岸和田市 本徳寺所蔵 慶長18年(1613年)賛 絹本著色
フリー百科事典より出稿。 明智光秀 明智軍記 本城惣右衛門覚書
明智城(明智長山城)跡


花フエスタ記念公園(右)及び公園内に開設の「ぎふ可児 大河ドラマ館」
その時歴史が動いた 明智光秀の真実〜心優しき武将〜

花フエスタ記念公園(世界最大級のバラ園)。シーズンオフのため園内の掲寺板を撮影。

天龍寺。

天龍寺山門と境内の明智氏歴代之墓所。

明智城大手門。

明智城跡散策路地図。

明智城跡碑と七ツ塚。

馬防柵(左)と本丸跡。

展望台の説明板。
明智光秀の産湯の井戸

明智城跡登り口で頂いた案内書をコピーしたものです。
織田信長重臣・明智光秀の誕生地を訪ねる小さな旅。 第1部 第2部 第3部


明智城跡の一角に建つ石碑です。
コウライオヤニラミ
Arakawa Toyoz? Museum
ウィキメディア・コモンズ経由で・荒川豊蔵資料館
荒川豊蔵資料館
荒川豊蔵資料館

明智光秀・史跡(可児市外)


末盛城跡。稲生が原の戦 信長関連、古渡城跡信長関連、岩倉城跡 末盛城跡

末盛城跡の土塁。室町時代末期平山城として原型に近い形で残されています。県内の貴重な史跡です。


東別院境内の古渡城跡。 古渡城跡


八幡神社境内の「明智光秀公ゆかりの地」の石碑と光秀公の石の坐像(左)。
関連: 八幡神社境内・瑞浪市。

D?san-zuka
立花左近・ウィキペディアより・道三塚(岐阜市道三町)


聖徳寺は廃寺となり:名古屋・八事へ移転された。
重厚で風格のある山門は岩塚宿光圓寺に移転されています。


駒塚道追分道標を過ぎたところから美濃路を西へ廻り津島街道沿いの聖徳寺跡、
織田信長と斉藤道三が会見した場所の説明板。

「利家とまつ」(森部の合戦その1)


長良川右岸堤防沿いの岐阜県安八郡安八町にあります。墨俣一夜城は約3キロ北
同じ長良川右岸堤防沿いにあります。平成14年2月10日撮影


上記出世の松のすぐ北西にあります。 森部の合戦・薬師堂

森部の合戦古戦場。岐阜県安八郡安八町にあります。

この戦で利家が勘当を解かれ
出世の礎となった。墨俣一夜城
ここから約3キロ北、同じ長良川
右岸堤防沿いにあります。
(243k)平成14年2月10日撮影

森部の合戦(その1) 森部の合戦(その2)

Sakamotojo06
投稿者が撮影・ウィキメディア・コモンズ経由で・坂本城の石碑/二の丸跡にある

Sakamotojo02
投稿者が撮影・ウィキメディア・コモンズ経由で・明智光秀像/坂本城址公園に建つ

信長は比叡山焼き討ちの後、光秀に近江国滋賀郡を与え、京と比叡山の抑えとして築城した。

Saikyoji01s3200
ウィキメディア・コモンズ経由で・西教寺, 滋賀県大津市坂本

Saikyoji03
ウィキメディア・コモンズ経由で・明智光秀とその一族の墓

Saikyoji05
ウィキメディア・コモンズ経由で投稿者が撮影・明智光秀公辞世句の碑。

西教寺 坂本城

Erinji main gate
ウィキメディア・コモンズ経由で・恵林寺三門

Nobunaga strikes 
Mitsuhide
ウィキメディア・コモンズ経由で・恵林寺を焼こうとするのを諫めた光秀を打ち据える信長

恵林寺

Honnoj
ウィキメディア・コモンズ経由で・本能寺焼討之図

Yamazaki04
ウィキメディア・コモンズ経由で・山崎合戦の地 石碑


jr山崎駅前から天王山山頂方面を撮る。 山崎の戦い
googleマップ・リンク天王山山崎城跡

明智光秀本陣跡。


本陣説明板。


恵解山(いげのやま)古墳が明智光秀の本陣であったのではとの説が確認出来ました。


長岡京市 国史跡・恵解山(いげのやま)古墳。 説明板拡大

明智藪光秀が敗走中、落武者狩りに京都の小栗栖(おぐりす)で終焉の地。
そこには今も「明智藪」と呼ばれる石碑が建つ。 本教寺

光秀(おとこ)の意地  鳥羽一郎

中仙道(伏見宿・その1) 中山道(伏見宿・明智光秀その2)

これより中仙道(岐阜県内)

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